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沖縄×かつお節 okinawa×katsuobushi

消費量No.1 かつお節天国・沖縄(※)

沖縄のかつお節消費量は「全国1位」なんです!(※)

※総務省統計局家計調査年報 平成21年度より

池間島および伊良部島の佐良浜で、かつお漁が始まって約100年。世にはあまり知られていない宮古のかつお漁には、沖縄ならではの奥深い歴史があります。宮古かつお漁の始まりを紐解きます。

戦前の沖縄の漁業

「琉球王朝時代の沖縄では、中国への貢ぎ物としての貝殻などの漁が小規模に行われている程度で、食用の魚を穫る漁はあまり盛んではなかった。
大きな変化が起きたのは、1871年の廃藩置県、1879年の琉球処分を経て沖縄県ができて以後のことです。糸満の漁師たちが開発した水中眼鏡や追い込み漁が各離島に伝わったことをきっかけに、福岡から沖縄にやってきていた古賀辰四郎さんという漁師が1896年、尖閣諸島でかつお漁を始めました。これが沖縄における最初のかつお漁です(仲間さん)」

お話をうかがった方々
伊良部漁業協同組合・代表理事 組合長

友利義文さん
伊良部島の漁師一家に生まれる。組合長として現在の佐良浜かつお漁を支え、2010年に黒潮町で行われた1回目のカツオフォーラムにも参画した。また、先に行われた 佐良浜かつお100周年祭実行委員会では会長も務めた。

伊良部地域おこし研究所・所長

仲間明典さん
旧伊良部町の町役場で水産振興課に務め、のちに宮古島市議会議員として活躍。現在は伊良部地域おこし研究所・所長として地元産業の振興に努めるほか、伊良部島のかつお漁業についての研究も行い、かつお漁の歴史に造詣が深い。

広域に拡大していったかつお漁

日本のかつお漁とかつお節製造業は、明治の終わりから大正時代にかけてボルネオ、セレベス、パラオといった南方に進出しており、昭和4年ごろからは佐良浜漁師や地元の女工たちが現地に移民として就労するように なりました。南方における漁獲高やかつお節生産の売上高の多くを本土の大企業が占めていたにも関わらず、僻地にある沖縄の漁師たちが数多く雇われた理由は、独自の追い込み漁の技術が重宝されたからだと言われています。


1871年 廃藩置県が行われる。古賀辰四郎氏が福岡から沖縄にやってくる。
1879年 明治政府が行った琉球処分によって沖縄県ができる。
1884年 漁業の変化により、糸満の漁師たちが水中眼鏡を開発する。
1890年 糸満の漁師たちがアギヤー(追い込み漁)を開発。これが宮古諸島など
付近の離島にも伝わり、沖縄漁師特有の漁法として普及し始める。
1896年 古賀辰四郎氏が尖閣諸島で沖縄でのかつお漁を始める。
1906年 鹿児島出身の鮫島幸兵衛氏が帆船2隻を宮崎から購入し、
宮古島の狩俣でかつお漁を開始。
1907年 池間島の漁協が漁船を購入し、池間のかつお漁が始まる。
1909年 伊良部島・佐良浜でかつお船2隻によるかつお漁が始まる。
同時に愛媛から鰹削節女工が島へ入り、かつお節の製造が始まった。

かつおのエサ穫り・沖縄漁師の追い込み漁

追い込み漁法「アギヤー」は、沖縄漁師独自の漁法。これがかつてのかつお漁にも活かされました。その主な目的は、水深20m以上の地点にいる魚(カツオのエサになるもの)を穫ること。南方かつお漁では、餌不足になることもしばしば。昭和初期に隆盛を誇った焼津の南興水産、戦時中ボルネオに向かった皇道産業焼津践団の南方開発団などにも、こうした貴重な技を持つ伊良部や平良の漁師たちが多数雇われ、活躍しました。
網を仕掛けるときは、昔は素潜りで水深25、6mくらいまで潜りました。今この漁法ができる漁師は、佐良浜でも12〜3人しかいない。この“アギヤー”自体も、今では沖縄の中で伊良部島でしか行われいないんです(友利さん)」
「魚もバカじゃないから、網にかからないように逃げようとする。でも、佐良浜や池間の漁師たちは潮の流れと海底の地形を読めるんです。だから魚がどの方向に逃げるのかも分かる。これが、GPSのない時代に天測でパラオまで航海していた沖縄の漁師の実力だった(仲間さん)」 いずれも佐良浜や池間の漁師たちの優れた手腕を思わせる話です。

後継者不足とかつお漁・ かつお節生産の衰退

かつお漁やかつお節製造の中心地となった南洋は、太平洋戦争時における激戦地でもありました。ある文献によると、 戦時中の1942年当時、それらの南洋諸島で水産業に従事していた沖縄県人(主に 池間島・伊良部島・糸満・本部出身者) は6164人。水産業に従事する日本人の92%を占めたとも記されていますが、宮古の景気を支えていた多くの移民たちは、 戦渦に巻き込まれ命を失ったのです。その後沖縄がアメリカ統治下に入っ ても、池間や伊良部でのかつお漁は続きました。最も隆盛を極めたのは、1950年〜60年代のこと。最盛期には伊良部島だけで83隻、小さな池間島でも14隻ものかつお船が操業しており、一時は宮古島だけで本土の焼津に勝る漁獲高を誇った年もあったとか。
「海から帰った漁師の泥だらけの足を、ビールで洗ったなんて逸話も残っている。アメリカの食文化も一緒に入ってきているから、景気が良かった頃は泡盛でなく高級ウイスキーで酒盛りしていたそうです。宮古はかつおを穫るようになるまではただの貧しい島にすぎなかった。かつおで生計を立てることでやっと子供たちを養えるようになったわけだから、この島の人々にとってかつおは神様なんだよ(仲間さん)」

伊良部から始まった 新しいかつお漁・パヤオ

パヤオとは、魚が会場に浮かぶ流木 などに集まる習性を利用した漁法のひとつ。これに群がってきた小型の魚を 狙い、かつおやまぐろのような大型の魚がやってきます。
「沖縄で最初にこの漁法を導入したのが伊良部島で、昭和57年のこと。台風にやられて失敗することもありますが、この漁法が現在の伊良部島のかつお・ まぐろ漁などを支えているのです(友利さん)」
残念ながら現在の宮古諸島には、かつお漁隆盛期の賑わいはなくなりましたが、かつおへの情熱は健在。宮古の漁師たちが日本のかつお漁とかつお節の歴史に大きく影響を与えたことは間違いなく、彼らの誇りでもあるのです。

島と海の神々、そしてかつお漁。これが池間のすべてだった

宮古諸島の中でも、かつお漁に縁の深い西原、池間、佐良浜の3地域の人々は「池間民族」と呼ばれ、同地には毎年9月に行われるミャークグツというお祭があります。渡り島の神様に感謝を捧げるこの行事が、かつお漁で栄えたこの3地域の結束の証とか。
「かつお船が出港して帰ってくるまでには、 全部で14回の神願い(ニガイ)があるんです。相手は海という大自然。航海の安全を祈る願い、魚を寄せる願い、えさを寄せる願いまで、すべて船一隻ごとに行った」
船上で昼食にかつおの刺身をいただくときも、決まった作法で魚をおろし、フナダマ(船霊)に備えて手を合わせてから刺身にしたのだそう。帰港した後も島の神様へのお参りは欠かさなかったそうです。

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