削りぶしの将来性に着目し創業
苦難と激動の時代を乗り越え、販路拡大
創業者である城戸豊吉が取引のため出向いた大阪の市場で削りぶし専用の切削機と出会う。削りぶしの将来性を感じた豊吉は、愛媛県伊予郡郡中村米湊栄町で削り機3台から「花かつお」の製造を開始し、ヤマキの歴史が始まった。東名阪の重点戦略により、花かつおの製造・販売から20年の歳月をかけ、業界のトップメーカーに登りつめた。
創業者城戸豊吉は1891(明治24)年11月に生まれ、1908(明治41)年に、郡中村米湊栄町にて海産物問屋「城戸豊吉商店」を開業した。1917(大正6)年、堅い節を花びらのようにふわりと削る切削機3台を購入し、削りぶしの製造を開始した。花かつおの起源であり、ヤマキの歴史の始まりである。(写真:創業当時の製品荷姿)
1923(大正12)年9月1日に関東大震災が発生、1927(昭和2)年に金融恐慌が起こる中、城戸豊吉は「信は万事の本を為す」の信念のもと、市場の拡大に努めた。阪神方面へは機帆船を利用し、大阪以東へは機帆船で呉、尾道へ運び、そこから貨車に積み替えて商品を発送。1931(昭和6)年10月、東京支店を開設。長男稔を初代支店長とし、有力特約店の協力を得て、本格的な販路開拓に乗り出した。(写真:昭和初期の特約店)
順調な業績も第二次世界大戦の影響で急降下
新工場設立するも国策に協力すべく全面廃業へ
削りぶしの将来を見据えて生産体制を強化。建坪1700坪の広大な工場を建設、削り機は60台となり、全国から注文が殺到した。うなぎ上りの業績だったが、時代はさらなる躍進を許さなかった。第2次世界大戦の影響で業績は急降下、新工場も国策に協力すべく全面廃業へ追い込まれた。
1937(昭和12)年6月、郡中村米湊において最新鋭の設備を誇る新工場を建設し操業を開始した。操業開始後は、全国から注文が殺到し、業績は顕著に向上した。(写真:新工塲包装場袋詰作業)
1931(昭和6)年勃発の満州事変から日中戦争、第二次世界大戦へと戦争は拡大。削りぶしは動物性たんぱく質の給源として重要視され、統制が実施されて配給制となる。戦火が激しくなる中、企業整備令が公布。城戸豊吉は国策に協力すべく、断腸の思いで機械設備を解体・供出し、1944(昭和19)年1月全面廃業に至る。
戦後、本業再開へ新たな一歩
全社一丸、不屈の精神で苦境を跳ね返す
戦後、工場は返還されるも農林省指定の製粉工場として再出発した。削りぶしの統制の一部緩和を機に、念願の削りぶしの再生産に踏み切る。切削機を1台ずつ増設しながらゼロから出発だったが、全社一丸となり不屈の精神で苦境を跳ね返した。そして1950年、個人経営組織から株式会社への改組、経営基盤を整え、市場変化に即応できる体制を築いた。
1947(昭和22)年10月、統制が一部緩和されたのを機会に、当社は再び削りぶしの生産に踏み切った。ゼロからの出発であり、切削機を1台ずつ増設しながら生産量を増やしていった。(写真:戦後の特約店)
1950(昭和25)年8月には東京市場の回復に力を注ぐため、株式会社東京城戸商店を設立。そして同年11月1日に業容の拡大に即応し、事業を推進すべく個人経営組織を法人組織に改組、株式会社城戸商店を設立した。(写真:城戸商店看板)
朝鮮戦争の特需景気で、削りぶし業界においても激しい企業競争が始まり、当社も宣伝に大きな力を入れる。1954(昭和29)年10月、特賞100万円つきの消費者向け特売を実施した。(写真:宣伝カー)
1957(昭和32)年7月、名古屋に工場並びに営業所を新築し、現地生産を開始。
1962(昭和37)年2月に株式会社東京城戸商店は株式会社東京ヤマキに社名を変更。
1965(昭和40)年4月1日から実施された削りぶしのJAS(日本農林規格)制度の認定工場となり、品質管理基準に基づく規格品の出荷を開始した。
1958(昭和33)年11月3日、城戸豊吉は産業功労者として業界において初の黄綬褒章を授与。1965(昭和40)年7月14日、静かに息を引き取った。享年74歳であった。同年7月25日、祖父である豊吉の志を受け継ぎ、28歳の城戸恒が代表取締役社長に就任した。
将来の展望に立ち主要経済圏の拠点づくり
消費者ニーズに応える新商品を開発
削りぶしに人生を捧げた豊吉の志を受け継ぎ、嫡孫・城戸恒が28歳で社長に就任。創業から約50年、重責もある中、新たな時代の幕開けを決意。社名を「ヤマキ株式会社」に変更、またキャッチフレーズを「ヤマキは自然の味を大切にします」とし、削りぶし屋から「鰹節屋・だし屋」へ発展させ、現代のヤマキの姿を確立させた。
1966(昭和41)年8月、大阪地区の特約店仲野商店と合併し、株式会社大阪ヤマキを設立。その後1970(昭和45)年4月に株式会社大阪ヤマキを廃止し、㈱城戸商店大阪支店を開設し、 関西地区への積極的な販売に乗り出した。関東地区においても1969(昭和44)年5月、 埼玉草加市に東京工場を建設し現地生産を開始した。 同年11月、札幌駐在所を開設。1971(昭和46)年11月に広島出張所を開設。 全国に販促活動の拠点が広がり、生産においても需要拡大に対応できる体制が整った。 (写真:東京への製品船積み)
1969(昭和44)年10月、食生活の簡便化に応えた「鰹だしの素」を発売。
1971(昭和46)年6月には、激増する需要に対応して、本社構内に防熱防湿施工の新ラインを建設し、増産体制を確立した。
1971(昭和46)年11月1日、全社員から新しい時代にマッチした新社名とキャッチフレーズを募集し、新社名を「ヤマキ株式会社」、キャッチフレーズを「ヤマキは自然の味を大切にします」に決定した。1973(昭和48)年1月には本社新工場が竣工、2月2日に落成式を行った。
1972(昭和47)年、使いきり(1袋5g入り)の「カツオパック」を新発売。上質のかつお節(本枯れ節)を原料に、削りたての味と香りを失わない特殊包装をほどこした。この商品は特に進物用の商品として需要が急伸し、会社の売上増加に大いに貢献した。
液体分野参入に続き海外進出
時代のニーズに応え、
さらなる成長を目指す
1979(昭和54)年12月、本社工場内にめんつゆ生産ラインを新設。ヤマキの総合的な企業力を高め、「液体のヤマキ」としての確固たる地位を築き上げることになった。
1979(昭和54)年2月、ヤマキとして初の和風液体調味料「めんつゆ」を発売した。開発にあたって、ヤマキ社員が東京の老舗そば屋で修業し、そのノウハウを基に製造された「鰹のだしが効いた鰹節屋のめんつゆ」は順調に売上を伸ばした。
1984(昭和59)年3月、消費者ニーズの多様化に対応した「ストレートめんつゆ」を新発売。味は「そうめんつゆ・ストレート」と「そばつゆ・ストレート」に、容器はビンとパウチの2タイプとした。それぞれのめんとの相性を極めた専用つゆで、当社の日本の味作り60余年の経験を余すことなく注ぎ込んだ。
1990(平成2)年11月、伊予市下三谷工業団地内に、ヤマキ製品の配送拠点となる物流センターが竣工。
品質および生産性の向上
食品総合メーカーとしての
基盤を確立
1992年(平成4)年4月、1972(昭和47)年に建立された供養塔を第二工場用地内に移設。物故先輩社員の霊を慰め、感謝の意を掲げ、社員の幸福と会社発展を祈念する趣旨を末代に伝達するため石板に刻み、毎月2回、社員が交代で清掃を行う。
1993(平成5)年3月、新鮮一番花かつおを新発売。一本釣りのかつおを使用し、かつお節を遠赤外線加工法でじっくりと加熱することで、甘く芳醇な香りを加えた削りぶしです。削りたての「香り」「味」「しなやかさ」をお届けするために、気密性に優れたパッケージで密封しました。
1994(平成6)年10月28日、めんつゆ新工場が竣工。つゆ業界において最高で最大のものをめざし、安心・安全はもとより、増大する需要にタイムリーに応え、高品質な商品を安定生産していくことを追求した。特に「だし」取りに工夫を凝らし、循環抽出法を採用、「一番だし」のみの使用により、かつお節の自然な香りをさらに極めた。
1994(平成6)年、割烹白だしを新発売。かつお一番だしを効かせ、薄口醤油などで調味した、薄めるだけの手軽さで、いつもの料理が割烹の味わいに仕上る九州や中京エリアで親しまれていた白だしを全国的に広め、現在、白だしカテゴリーシェア№1(※)を獲得。多くの方に好評を頂いている。※ヤマキ調べ2015年1月~12月KSP-POSデータより
1998(平成10)年1月、本社工場のHACCP認証、同年7月には第二工場においてつゆ業界として全国初のISO9002・HACCPの認証を同時取得。翌年には本社工場もISO9002を認証取得し、削りぶし業界において初の取得となった。
2000(平成12)年9月、ハローキティギフトセットを新発売。
健康・新素材・新技術がキーワード
高付加価値商品の開発に挑戦
2002年、「氷温熟成花かつお」「氷温熟成かつおマイルド削り」を新発売。氷温帯(0℃以下で鰹が凍らない温度帯)で、鰹の鮮度を保ちながら作られ、うま味が強く、香り高いかつお節。
2002(平成14)年8月、韓国の著名料理人「韓福善」氏の監修のもと、「韓福善キムチ鍋つゆ」を新発売。
2005(平成17)年3月28日、商品競争力の強化を目的に独自の技術・ノウハウを追求する開発センターが稼働。開発センター内に「かつお節・だし研究所」も開設。当社の基幹をなす「かつお節」と「だし」に関する研究の推進および情報発信を担い、専任の研究者を置くことにした。
2005(平成17)年3月、当社は「自然の味を大切にする」という方針のもと、日本の食文化に貢献することを使命としており、環境問題への取り組みは当然の責務であり、これまでも環境法規制への対応を行ってきたが、より積極的に推進するためにISO14001の認証を取得した。
創業90周年、社長に城戸善浩 就任
「だし」のリーディングカンパニーへと飛躍
創業90周年を迎え、より価値ある和風調味料を国内外に提供し、お客様のおいしく健康な食生活に貢献することを目的に、味の素(株)と資本・業務提携を締結。この記念すべき年に、世代交代を表明。恒の長男、城戸善浩専務取締役が社長に就任し、「おいしくて健康に良いものは国境を超える」の思いを引き継ぎ、新しいステージに向かって歩み始めた。
2007(平成19)年2月1日、味の素(株)と資本・業務提携契約を締結。和風調味料事業のコア原料であり日本の伝統的食材でもある鰹節を基点に、相互の事業を補完強化することで、より価値ある和風調味料を国内外に提供し、消費者のおいしく健康的な食生活に貢献していく基盤を強くした。
2007(平成19)年4月2日、城戸恒社長が代表取締役会長に、城戸善浩専務が代表取締役社長に就任した。創業90周年を迎え、新しい役員体制と人事異動を行い、事業の拡大とさらなる飛躍を目指すための第一歩を踏み出した。
2009(平成21)年3月、まろやか減塩だしつゆ(減塩50%)を新発売。だしを効かせることで、おいしさそのままに塩分50%カット(※)、家族の健康とおいしさを考えたカラダにやさしいだしつゆ。(※当社3倍濃縮つゆ比)
2015(平成27)年5月、「第1回JSH減塩食品アワード」で金賞を受賞。
(現在の商品名は「減塩だしつゆ」)
日本の食文化を支える一翼として
誠実に確実に“ものづくり”を追求
「鰹節屋・だし屋、ヤマキ」の追求をスローガンに、日本の食文化を支える一翼として誠実に堅実に“ものづくり”を追求。東日本における供給拠点として、豊富な水源がある群馬県利根郡みなかみ町に工場を新設。多彩な生活スタイルに合わせた商品の開発やリニューアル、そして、プロモーション、販売チャネルの開拓等、For FamilyからFor Oneへ。
2010(平成22)年8月31日、群馬県利根郡みなかみ町に、群馬事業所みなかみ工場が竣工。翌年1月からは液体調味料の本格生産を開始した。工場見学者コースをつくり、お客様に「だし」や「めんつゆ」について理解を深めていただくプログラムやパネル、DVD等を用意するとともに、削りたてのかつお節の香りと味が体験できる自動のかつお削り機を常設するなど、さまざまな工夫を凝らした工場である。
2014(平成26)年、1994(平成6)年に発売された「割烹白だし」が20周年を迎えた。時短・簡便調理が支持される時代にあって、汎用性が高く、薄めるだけで味が決まる「割烹白だし」は白だしカテゴリー売上№1(※)を獲得。めんつゆに続く、ロングセラーの和風液体調味料に成長した。
※ヤマキ調べ2016年1月~12月のKSP-POSデータより
2014(平成26)年8月8日、雅媽吉(上海)食品有限公司液体工場を竣工した。当社初の自社による海外生産拠点で、現地でかつお節などからだしを抽出し、ひきたてのだしを使った高品質製品を中国の日本食レストランなどへ提供することになった。
2015(平成27)年7月、ミラノ国際博覧会で開催された「ジャパンサローネ」に味の素グループとして参加。日本が誇る「だし」の素晴らしを「白だしスープパスタ」の試食を通して伝えた。
2015(平成27)年7月22日、群馬事業所みなかみ第三工場が新しい乾物・固体工場として竣工した。削りぶし、だしの素などの主力商品の製造設備を本社工場より移設し、本社工場とあわせて固体商品生産の東西2拠点化が実現した。
2017(平成29)年4月、創業100周年を迎え、「鰹節屋・だし屋ヤマキ」のDNAを、次の100年へ力強く継承するという想いを込め、シンボルマークをリニューアル。創業以来100年に亘って親しまれてきたシンボルのイメージを最大限に活かしながら、「入りヤマキ」を罫線枠から解放し、更にシンボリックに強調した。
2018年(平成30年)2⽉、めんつゆ、割烹⽩だし、減塩だしつゆなど主⼒商品を、お客様の使いやすさを追求し、従来の瓶容器からペット容器に変更。
新ボトルは、握りやすさに配慮した「くびれボトル」を開発。同時に「安⼼・安全のキャップシール」「つゆが滑らかに注げる形状のキャップ」「環境を配慮し廃棄時に分別しやすいラベル」を採⽤。変わらぬおいしさを守りながら、更なる進化でお客様にもっと愛される商品を⽬指した。